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2012年12月8日

インスピレーション:「文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。」

「文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。」・・・中島敦氏の短編小説『文字禍』はこの一文から始まります。文字や言葉が私たちに、そして人間の歴史にどのように作用しているのか、じっくり考える機会を作ってくれる作品です。

「・・・その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館―それは、その後二百年にして地下に埋没し、更に二千三百年にして偶然発掘される運命をもつものであるが―に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽に耽った。両河地方(メソポタミヤ)では埃及(エジプト)と違って紙草(パピルス)を産しない。人々は、粘土の板に硬筆をもって複雑な楔形の符号を彫りつけておった。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた。老博士の卓子(テーブル)―その脚には、本物の獅子の足が、爪さえそのままに使われている―の上には、毎日、累々たる瓦の山がうずたかく積まれた。それら重量ある古知識の中から、彼は、文字の霊についての説を見出そうとしたが、無駄であった。文字はボルシッパなるナブウの神の司りたもう所とより外には何事も記されていないのである。

文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。博士は書物を離れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨めっこをして過した。卜者は羊の肝臓を凝視することによってすべての事象を直観する。彼もこれに倣って凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。その中に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。老儒ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚いた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。彼は眼から鱗の落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。・・・」(中島敦著『文字禍』より一部抜粋/青空文庫

*写真は、12月1日に東京有楽町のMoleskineアトリエで開催された第2回ワークショップ「WORDS:Moleskine message Edition」で撮影されたものです。このワークショップもまた「言葉」をテーマとしています。ワークショップの様子はFacebookにアップされていますので、ぜひこちらもご覧下さいね。

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